世界が惚れた!数々のウェディングドレス
ロイヤルウェディングが国際ニュースで取り上げられると、式全体が、公衆の注目の的となります。現代の貴族のことが気になり、高尚な式の情報をすべて知りたいのです。どこで開催されるのか、だれか出席するのか、そしてなによりも、花嫁のドレスがどのような見た目なのか。女王、王女、そして公妃たちがロイヤルウェディングの注目の的であり、よく一般人の結婚式のファッションの指針にもなるのです。どういうことなのか、見ていきましょう!
エリザベス2世
エリザベス女王2世は、1952に即位してから、イギリスを含む英連邦王国を統治しています。即位前はエリザベス王女として知られていました。
彼女は1947年11月20日に、ウェストミンスター寺院にてエジンバラ公フィリップ・マウントバッテン王子と結婚をしました。
戦後のファッション
エリザベスとフィリップの結婚式は第二次世界大戦後に行われましたが、当時、イギリスでは資源は配給制が取られていました。ドレスのための資材は配給券を使って集められ、ノーマン・ハートネル氏によりデザインされました。ハートネル氏は細かい刺繍技術で知られており、このドレスにつき「今までデザインした中で最高傑作のドレス」と言及しています。
エリザベスは式のために自分で化粧をして、白のサテンドレスを身にまといました。このドレスにおいて、お花形に散りばめられた白クリスタルや真珠で装飾された長い裾がステキなタッチとなりました。結婚式の朝に、エリザベスは誤ってティアラを壊してしまいました。幸運なことに、王室の宝石細工人がスタンバイしており、式の前にティアラを修復してもらうことができたそう。
グレース・ケリー
アメリカ人女優のグレース・ケリーは、まさにおとぎ話のような人生を歩んでいました。1950年代に『モガンボ』や『ダイヤルMを廻せ!』など、いくつものヒット映画にめぐまれ、一躍大スターとなりました。女優を引退して、その後1956年にレーニエ王子3世と結婚をしてモナコ公女となり、さらに世間を騒がせたのです。
メディアには「世紀の結婚」と称されたこの式のために、モナコ宮殿の完全レノベーションを含む大胆な準備が行われました。ケリーは、公女としての役目を果たしながら、慈善活動に深く関わっていました。
モナコのプリンセス
グレース・ケリーのエレガントで精巧なウェデイングドレスはヘレン・ローズによりデザインされました。アカデミー賞を受賞したことがある衣装デザイナーのローズはMGMスタジオに所属しており、ドレスはスタジオからの贈り物でした。このドレスには36人もの裁縫師が作業し、150年もののレースと、シルクの高級種別であるポードソアが使用されました。
ドレスの中には3着のペティコートがまるで浮いており、実にお姫様のような演出でした。ケリーのドレスは、"もっともエレガントで記憶に残るドレスのひとつ"として崇められており、次の貴族のドレスのインスピレーションであったのです。
ケイト・ミドルトン
キャサリン(ケイト)・エリザベス・ミドルトンは、2003年にケンブリッジ公爵のであるウィリアム王子と付き合い始めて、メディアを沸かせました。ウィリアムは亡きダイアナ妃の息子であり、エリザベス女王2世に次ぎ、王位継承順位2位となっています。ケイトは公族の血筋ではなくいわゆる"一般市民"であったため、2人の関係は最初の頃は徹底的に調べ尽くされました。
ただ、一般市民はすぐにケイトを暖かく受け入れ、2010年の11月に2人が婚約を発表した際、大いに盛り上がりました。ウィリアムとケイトのおとぎ話のような結婚式は、2011年4月29日に、ウェストミンスター寺院で行われたのです。
ケンブリッジ公爵夫人キャサリン
ケイト・ミドルトンのウェディングドレスは、アレキサンダー・マックィーンに所属するサラ・バートンによりデザインされました。彼女はミドルトンと密に話し合い、"伝統的かつモダン"なドレスを作り上げたのです。制作費は43万ドルもしたのだとか!胴部分は主にアイボリー色のサテンが使われ、レースより象られた19世紀スタイルのお花デザインが施されました。このお花デザインこそが彼女の言う"伝統的"な部分だったのです。
幾重にも重ねられたシルクチュールがドレスのスカート部分を膨らませて、この特徴のある形が誕生しました。グレース・ケリーとエリザベス女王の伝統的なウェディングドレスを参考にしたミドルトンのドレスは、21世紀を代表するドレスとなり、世界中の結婚式で再現されました。
公爵夫人の2着目のウェディングドレス
ウェストミンスター寺院での盛大な式の後に、ケイト・ミドルトンはこっそりと2着目のドレスに着替えたのです。こちらは1着目ほど形式ばったものではありませんでしたが、同じくらいエレガントです。1着目と同じこのドレスは、同じくアレキサンダー・マックィーン所属のサラ・バートンによりデザインされました。ハート型の首元のデザインに、プリーツが施されたスカートとダイアモンドクリスタルのベルトが特徴的です。
キャサリンは、最後にフサフサの白色のカーディガンをまとい、上品に肩周りを覆いました。まるで誕生したばかりの公爵夫人のように、高貴かつモダンさを演出しました。
背中が開いたドレスで思い切った主張をしたユージェニー王女
2018年10月12日に、世間はまた豪華なイギリスのロイヤルウェディングを見届けることができました。ヨーク公アンドルー王子とヨーク公セーラ王女の次女であるユージェニー王女は、長年の恋人であったジャック・ブルックスバンクと、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で式を挙げました。
ユージェニーの綺麗なジャガードドレスは、彼女が最も好きなブランドのひとつであるピーター・ピロットのチームがデザインしたものです。背中が開いたスタイルは、大事な理由があっての花嫁からの要望でした。ユージェニーが12歳の時に、脊柱側湾症の治療のために受けた手術の跡をあえて見せる仕様にしたかったのです。2018年の前半に、This Morningという番組で彼女は次のように語りました。「美の捉え方は変えられるものです。傷跡は見せてもよいものですし、それを主張していくことは大事だと思っています。」
ユージェニーは2着目も型破りなドレス
もしユージェニー王女が結婚式に1着しかドレスを用意しないと思っていたら大間違いです。2着目は1着目と同じくらい素敵なドレスでした!白という伝統的な色から離れ、ザック・ポーゼンにデザインされた淡いピンク色のドレスを着ました。まさにハリウッド・グラマーですね!
この2着目のドレスには、ヨークシャーの伝統的シンボルである白バラのデザインが入念に手で縫い付けられていました。デザイナーのポーゼンは、刺繍のクロースアップをインスタグラムに投稿し、「日記へ。今週末は忘れられないおとぎ話を体験してきました。 #ヨークシャーの白いバラ」と綴りました。感動的なお言葉ですね!
アレサンドラ ・デ・オスマ
このカップルの結婚は、ハリー王子とメーガン・マークルの結婚式熱の影に隠れてしまいましたが、アレサンドラ ・デ・オスマを今回紹介しないわけにはいきません。2018年3月に、オスマはハノーファー家のクリスチャン王子と、ペルーのリマで結婚しました。モデルから弁護士へと転身した彼女は、ホルヘ・ヴァスケスがデザインした美しいレースのドレスを着ました。このドレスは高い首のラインと七分丈の袖が特徴的ですね。
オスマのベールはまるで永遠に続くかのような長さで、頭にはハノーファーのフローラルティアラが輝いていました。このティアラは、2004年のガラで、ハノーファーのカロライン王女が着用したものなのです。
サセックス公爵夫人となったメーガン・マークル
2018年5月9日、メーガン・マークルとハリー王子が結婚する瞬間を、世界中の人々が見守りました。メーガンは見惚れるようなドレスに身をまとい、世界中で似たようなドレスがすぐさま誕生しました。ドレスはワイト・ケラーがデザインしましたが、夢のようなこのドレスの製作に、たった5ヶ月しか時間がありませんでした。
この高尚でシンプルな七分袖シルクドレスは、実に見事でした。オルガンザのアンダースカート、ボートネック、そして5メートルもあったベールが話題となりました。さらにこのドレスをより特別にするために、2人の初デートの際にメーガンが来ていた青いドレスの一部を、ケリーがこのウェディングドレスに縫い付けたのです。心温まる素敵な話ですね!
スウェーデンのマドレーン王女
2013年に、スウェーデンのマドレーン王女はアメリカ系イギリス人の投資家クリストファー・オニールと、おとぎ話のような恋愛を経て結婚しました。マドレーン王女は以前婚約していたのですが、結婚前に関係は破綻。傷心旅行で訪れたニューヨークで、彼女はクリスに出会ったのです。
2年間の交際を経て、2人は2013年6月8日に、ストックホルム宮殿のロイヤルチャペルで永遠の誓いを交わしました。マドレーンの美しいドレスはヴァレンティーノによりデザインされ、シルクのオーガンディーとアイボリー色のシャンティリー・レースが満遍なく使用されました。4メートルのドレスの裾と、6メートルのベールに、多くの人が見とれたのです。
エカテリーナ・マリシェヴァ
2017年7月8日に、エルンスト・アウグスト王子とエカテリーナ・マリシェヴァがドイツのハノーファーで催された結婚式で、永遠の誓いを交わしました。マリシェヴァはロシア出身のデザイナーなので、1着だけでなく、3着も素敵なドレスを披露したことは、驚きではないでしょう。
晴れ舞台のために、マリシェヴァはデザイナーのサンドラ・マンスールにドレスのデザインをお願いしました。マンスールは3着の特注ドレスを用意したのです。1着は公式典のためで、残り2着はその後続く豪華なお祝いのためです。式のドレスには、ロシア色がある、伝統的なドレスをマリシェヴァは希望していました。このドレスはすべて手で刺繍が行われ、シャンティリーレースが使われ、真珠が覆うように施されました。なんと製作に4ヶ月も掛かったのです!
ウェールズ公妃ダイアナ
ダイアナ公妃は、イギリス貴族出で、"ダイナー・スペンサー閣下"として生まれました。父親がスペンサー伯爵となり、レディ・ダイアナー・スペンサーとして知られるようになったのです。チャールズ王子と婚約した時、ダイアナは幼稚園の先生として働いていました。世界中で放送された2人の結婚式を経て、ダイアナはウェールズ公妃、コーンウォール公爵夫人、ロスシー公爵夫人、チェスター伯爵夫人、そしてレンフルー男爵夫人となったのです。
1981年7月29日に行われた結婚式は、テレビを通して7億5000万人ものファンに見届けられ、祝福されました。ダイアナとチャールズはウィリアム王子とハリー王子という2人の男の子を授かりました。
歴史に刻まれたドレス
ダイアナ妃のドレスは、世界でもっとも有名なドレスのひとつとなりました。アイボリー色のシルクタフェタと、アンティークレースが使用されたドレスは、デビットとエリザベス・エマニュエルによりデザインされました。ダイアナが好み、かつ"良い印象を残すために、適度にドラマチックなドレス"を意識したようです。
2人はそのアイデアを実現させたのです。7.5メートルのドレスの裾、手で施された刺繍、スパンコール、そして1万もの真珠。このドレスは"ドレスの黄金基準"と称されるようになり、1981年以降の結婚式には、膨らんだ袖、大きなスカート、そして柔らかい生地素材が流行となりました。
ハッジャ・ハーフィザ・スルルル・ボルキア王女
ハッジャ・ハーフィザ・スルルル・ボルキア王女は、世界でもっとも裕福な人間の1人であるとされブルネイのスルタンであるハサナル・ボルキアの娘です。母親はラハ・イステリ・ペンギラン・アナク・ハハ・サレハです。この一家は、王国を600年以上統治してきました。
ハーフィザは経済省の職員として働いていたのですが、首相直属の公務員との結婚となれば、それもう、ブルネイ宮殿の宮廷にて豪華が結婚式が求められます。2007年以降、スルタンの12人の子供のうち、結婚するのはハーフィザ王女が初めてでした。
贅沢な機会においては
結婚式とそれにと伴うお祝いは、スルタンの娘にふさわしいものでした。正式な結婚式は、1,700室もあるスルタンの宮殿で行われ、なんと3,000人もの人が出席したのです!ハーフィザ王女が式で着たドレスはベージュ色で、裾の部分には銀が、そしてドレス全体にはクリスタルのビーズが施されました。また、新郎は、対になるベージュと金色の服装でした。
2人の結婚式の服装はブルネイの文化に由来するもので、ハーフィザの頭には、複雑に縫われたレースの頭飾りの上に、多くの宝石により飾られた冠が輝いていました。これはムスリムの信仰に則っていた文化的な側面と言えます。1週間に及んだお祝いの間、ハーフィザはいくつもの豪華なドレスを身にまとったのです。
マリー・シャンタル・ミラー
ロンドン生まれのマリー・シャンタル・ミラーは、アメリカ生まれのイギリス人父とエクアドル人母に、香港で育てられました。そこから彼女はスイスで教育を受けたのち、ニューヨーク大学で美術史を専攻しましたが、そこで彼女は少しの間、アンディー・ウォーホルの下で働きました。
この時期に彼女は友人の紹介で、ギリシャの王太子であるパウロスに出会いました。1994年に、スイス旅行中に彼女はプロポーズを受け、彼と一緒になるために大学を中退したのです。プロポーズから6ヶ月後、パウロスとマリー・シャンタルはロンドンの聖ソフィア礼拝堂にて、ギリシャ正教の元、結婚をしたのです。
ギリシャ王太子妃
結婚後、マリー・シャンタルはギリシャのパウロス王皇太子妃の称号を得ました。このロイヤルウェディングは多くの人の注目の的となり、礼拝堂での出席者は450人にも上り、さらにエリザベス女王のお母様を含む850人もの人が、ハンプトン・コート・パレスから、衛星動画を介して式を見守りました。
マリー・シャンタルの22.5万ドルのドレスは、ヴァレンティーノ・バラヴァニによりデザインされ、真珠が施されたアイボリー色のシルクがベースとなっていました。また、4.5メートル弱のドレスの裾は、シャンティリーレースで作られたものでした。このドレス製作は数ヶ月に及び、25人もの人の手が必要で、12種類のレースが使用されたようです。
ヨルダンのラーニア王妃
クウェート生まれのラーニア・アル=ヤシーンはエジプトとスイス両方の大学に在籍したことがあり、シティバンクとアップルで働いた経験もあります。彼女は1992年に、晩餐会でアブドゥッラー・ビン・アル=フセイン王子と出会います。後日談として、アル=フセインは2005年に、People誌に次のように語りました。「ラーニアが部屋に入ってきた瞬間、運命を感じました。一目見て恋に落ちてしまったのです。」
アル=ヤシーンは、1992年の結婚を機にヨルダンの王女となりました。1999年に父の逝去に伴い、アブドゥッラーは国王に即位し、ラーニアはヨルダンの女王となったのです。
権力に適した女性
ラーニアはイギリス人のデザイナーであるブルース・オールドフィールドに結婚式の服装すべてのデザインをお願いしました。伝統的なムスリムの結婚式であったため、ドレスは控えめではありましたが、とても美しくもありました。式中、ラーニアの顔はベールで覆われていました。ラーニアのドレスは金細工が施され、短い袖、装飾された下襟と合わさって、まるでパワースーツのようでした。有力かつ影響力のある女性となった今から見返すと、このドレスは実に適切だったと言えるでしょう。
彼女は現在あらゆるSNSを使用しており、ヨルダン社会において、教育・健康・青年期・地域活性化の推進していることに対し賞賛されています。
ルクセンブルクのクレア王女
クレア・マルガレータ・ラーデマッハーはドイツの裕福な家庭に生まれました。父親はソフトウェア業界で多くの成功を収めてきました。ラーでマッハーは学位を取得してから、公務員として働いていたのです。
その後、彼女は生命倫理の修士号を取得し、現在同分野において博士号取得を目指しています。また、彼女はアドルフ・ナッサウの国民勲章を受章しました。この勲章は、英雄的、または貢献的な行いに対して授与されるものです。彼女は2000年代初期に、スイスの寄宿学校に在籍している間に、フェリックス王子と出会いました。
絵に描いたような優雅さ
クレア・ラーデマッハーとフェリックス王子の婚約は2012年に正式に発表され、2013年に、2人はドイツで結婚しました。大公継承順位2位のフェリックス王子との結婚により、彼女はルクセンブルクの王女となりました。エリー・サーブによりデザインされたクレア王女のウェディングドレスは、アイボリー色のシルクの胴部から流れるように繋がっていた、3メートルにも及ぶ裾が特徴的でした。
シャンティリーレースの上に施された複雑なお花型のモチーフが縫い付けられた上、クリスタルと真珠の装飾も施されました。最後に、グラン・デュカル家に代々受け継がれ、過去に4人の花嫁が被った花型のダイアモンドディアラを被って、全身完成です。
キャロライン王女
モナコ公室に生まれたカロリーヌ王女は、レーニエ王子3世と、元女優のグレース・ケリー王女の長女です。弟のアルベルト王子が生まれるまで、彼女は1年間ほどモナコの王位を継承する立場にありました。
1999年に、ハノーファーのエルンスト ・アウグスト王子と3度目の結婚をしても、王女の敬称は持ったままでした。いずれの式でも優雅なドレスを身にまとっていましたが、もっとも印象的であったのは、1度目の結婚で、パリの銀行マンのフィリップ・ジュノと結婚した際のドレスです。
控えめな魅力
1987年の初めての結婚式で、カロリーヌは花型の装飾がされた白いドレスで登場しました。このドレスは、マーク・ボーハンによりデザインされた、クリスチャン・ディオールのオートクチュールでした。ボーハンは、当時ディオールのヘッドデザイナーだったのです。ハイネックとビショップ袖が特徴となり、当時とても流行的として話題になりました。
王族との結婚ではなかったためか、カロリーヌは冠やティアラの代わりに、ベールを押さえつけるためのお花の輪っかを身につけていました。うわさによれば、式前にドレスの情報が漏れてしまって、ボーハンはデザインを修正しなければいけなかったようです。
スペイン王妃レティシア
元ニュースアンカーかつジャーナリストのレティシア・オルティス・ロカソラーノは中流階級の家庭に生まれました。父親も同じくジャーナリストで、母親は看護師でした。レティシアは、2004年にアストゥリアス公フェリペ王子6世と結婚するまで一般市民でしたが、結婚を経てアストゥリアスの王女となりました。王子とともに公務をこなし、王の代理として世界中を旅しました。
10年後、父の逝去に伴い、フェリペ6世はスペインの王となり、レティシアはスペインの王妃となりました。1999年に離婚をしていたレティシアにとって、これは2度目の結婚だったのです。
王女転じての王妃
レティシアのドレスはとても需要が高いスペイン人のデザイナー マヌエル・ペルテガスによりデザインされました。このドレスは床まで届く堂々たるドレスと、独特なハイカラーが特徴でした。この繊細なシルクのドレスには、アストゥリアス王子のシンボルであるフルール・ド・リスの形をした銀と金の装飾が4.5メートルもある裾の最後まで施されていたのです。
レティシアは、この豪華なドレスの仕上げとしてソフィア女王のダイヤのティアラを被りました。またイサベル王女がひととき所有していたアンティークの扇も持ち歩きました。女王の服装には青は一切見られませんでしたが、“伝統的ながらも先鋭的”と“借り物”というふたつの項目は見事に取り入れたのです。
シャーリーン・ウィットストック
シャーリーン・ウィットストックも、一般市民から王族へと転身した方のひとりです。モナコの王族に嫁ぐ前、ウィットストックは南アフリカ代表の水泳選手でした。2011年に、レーニエ王子3世とグレース・ケリーの息子であるアルベルト王子2世と、プリンスパレスにて民事結婚式を経て結ばれました。
民事結婚式において、シャーリーンは控えめながらとても似合う水色のパンツスーツを着ました。流れるようなシフォンのパンツと、色調が合う青色の靴を履いていました。スーツの袖も、パンツも、すべて優雅な青のレースで縫い上げられていました。シャーリーンはナチュラルメイクと控えめなジュエリーで、全体のルックスを仕上げました。
新しきモナコの王女
民事結婚式の翌日、王子と王女は宗教婚式を挙げました。こちらでは、シャーリーンはなめらかでオフホワイト色の美しいアルマーニのドレスを身にまといました。ドレスの前部分、スカート、そして80メートルものシルク・オルガンザでできていた裾を覆っていた刺繍を完成させるのに、実に2,500時間も掛かったそう!
また、4万ものスワロフスキーのクリスタル、2万ものマザー・オブ・パール、そして3万もの金石が、プラチナで覆われた糸で花型に縫い付けられ、この装飾だけでも700時間の作業がかかったそうです。2014年に、2人は男の子と女の子の双子を世に迎えました。
マーガレット王女
マーガレット王女はジョージ王6世とエリザベス女王の間に生まれ、エリザベス女王2世唯一のきょうだいでした。マーガレット王女は社交的で人気者でした。エリザベス女王は、妹がいつも注目の的であることを気にしていないのかと聞かれると、「マーガレットが居てくれたほうがいいのよ。そうすればマーガレットが笑いを取ってくれるから」と答えていました。
マーガレットは、1960年に、写真家のアンソニー・アームストロング=ジョーンズとウェストミンスター寺院で結婚しました。この結婚式は初めてテレビ放送された式で、世界中で3億もの人に視聴されたと言われています。写真家との結婚をよく思わない人もいましたが、1961年に夫がエリザベスからスノウドンの伯爵を授与され、マーガレットも王族の地位を取り戻したのです。
ウィンザー公爵夫人
シンプソンのドレスは、今まで見てきたドレスと比べると異様に見えるかもしれません。マン・ルソー・ボシェにより設立されたアメリカのファッションレーベルであるマンボシェにより、このなめらかなドレスは作られました。ウェディングドレスによく見られる白やアイボリーではなく、“ワリス・ブルー”として知られることとなる青色をシンプソンは選んだのです。この色は、彼女の目の色とマッチするように作られたのだとか。
彼女は、マッチする青色の藁の帽子とグローブをドレスとともに身につけました。TIME誌は次のように語っています。「彼女は、すぐにアメリカのデパートがショーケースすることになるであろうドレスを身にまとった。柔らかい青色の生地、ピシッとボタンで閉められた胴部分、後光のような形をした同じ色の帽子、そしてマッチする靴とグローブ。喉元には大きなダイヤとサファイアのブローチが輝いていました。」
ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴン
スペイン生まれで、7人兄弟の1人であったファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴンは、1959年にベルギー王のボードゥアンと逢った時は病院で働く看護師でした。また、子供向けにおとぎ話を執筆・出版していました。ボードゥアンとの婚約前はただの一般人であったため、1960年に、TIME誌は彼女を“シンデレラ・ガール”と称したのです。
雑誌において彼女は“たしかに魅力的な女性である”と書かれていたものの、同時“とびっきりの美女ではない”とも評されていました。対照的に、ボードゥアンは、“ファビオラは天からの贈り物だ”と日記に綴っていたのです。1960年の12月15日に、2人はベルギーのサンミシェルとサングドゥラ大聖堂で行われた式で結ばれました。
コーンウォール公爵夫人カミラ
カミラ・パーカー・ボウルズ(出生名カミラ・ローズマリー・シャンド)は2005年に、エリザベス女王2世に次ぎ王位継承順位1位のウェールズ公チャールズ王子の2人目の妻となりました。この結婚により、彼女はコーンウォール公爵夫人の称号が与えられました。彼女は、チャールズに“王子”の次に授与されていた“コーンウォール公”の方が、“ウェールズ公”より気に入ったからです。
もしチャールズが即位すれば、カミラは王配殿下と称号が与えられる予定です。カミラとチャールズは、それぞれほかの人と結婚している間に関係を持ちました。カミラはイギリス軍士官アンドリュー・パーカー・ボウルズと前は結婚しており、王子はウェールズ公爵夫人ダイアナと結婚していたことは周知の事実でしょう。
大人版のおとぎ話
カミラとチャールズ王子の結婚は、2人の関係に関する様々なスキャンダルと論争があったため、多くの疑問が投げかけられました。しかし、2005年には逆境を乗り越え、ウィンザーギルドホールでの民事結婚式を経て、2人は関係を正式なものとしたのです。
カミラは、ロンドンで活躍するロビンソン・ヴァレンティーンがデザインした、床まで伸びたクリーム金色のシフォンドレスを式で着ました。祝賀会へは、ドレスの上に、ステキな青色と金色のコートをまといました。また、ワンポイントとして、アイルランド人デザイナーのフィリップ・トレアシーがデザインした、スワロフスキーのクリスタルを付けた羽根の髪飾りを被っていたのです。
ハユ王女
ジョグジャカルタのハユ王女は、スルタンであるハメンクブウォノ10世の4人目の子です。2013年に、彼女は、ニューヨークの国際連合でキャリアを積んでいたノトネゴロ王子と、10年間の求婚期間を経て結婚しました。
この結婚式は多くの注目を集め、ジョグジャカルタの人々にとって大きなイベントとなりました。なぜなら、求婚期間がとても長く、スルタンの子のうち、ハユの結婚が一番最後だったからです。また、花嫁と新郎のお母さん同士は長年の友人で、王子と王女は幼少期から知り合いでした。この点も、国民の注目の的となりました。
インドネシアの王族
この豪華な結婚式は、新郎新婦、また出席者全員がジャワの結婚の服装の伝統に則り、伝統文化を大切にしていました。新郎と新婦の2人にはフェイスペイントが施され、複雑な頭飾りとジュエリーを身につけました。
伝統に則り、新郎は上半身裸で式に参加し、新郎新婦ともに鮮やかかつ気品ある金色の巻物で覆われていました。また、めでたい席をさらに盛り上げようと、出席者は孔雀の鮮やかな羽根を持ち歩いていました。3日間続いたこのお祝いは何千もの人が出席し、喜びに満ちた公共パレードも行われました。
ピッパ・ミドルトン
ピッパ・ミドルトンは作家、コラムニスト、そして社会活動家です。ただ、ケンブリッジ公爵夫人キャサリンの妹として、もっとも有名でしょう。元パイロットとキャビンアテンダントの娘であるピッパは、2011年の姉・キャサリンの結婚式で、花嫁付添人となったことでメディアから注目されました。
2016年7月に、ピッパとジェームズ・マシューズは婚約を発表しました。マシューズの父は、グレン・アフリックの地主であるデビッド・マシューズです。ジェームズが父の称号を踏襲すれば、ピッパはグレン・アフリック公夫人となります。彼女は多くのチャリティ活動にも関わっているのです。
王族に適した結婚式
おそらく世界で一番有名な“妹”であったピッパですが、その名声に恥じない豪華な結婚式となりました。ピッパ・ミドルトンがジェームズ・マシューズと2017年に結婚した際、6年前のケンブリッジ公・公爵夫人の結婚式と同じくらい注目を浴びました。それもそうでしょう。ピッパのドレスは実に美しかったのですから!
ジャイルズ・ディーコンにデザインされたドレスは、高めのネックライン、キャップ・スリーブ、ハート型に切り抜かれた背中部分、縫い目なく手作業で作られた見た目、そして真珠を使った細工が取り入れられました。重ねられたチュールと、オルガンザのアンダースカートが仕上げとしてまさにピッタリ!
イランのソラヤー女王
イラン生まれの女優ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーは、西ドイツのイラン大使であった父と、そのドイツ人の妻エヴァ・カールの間に生まれました。彼女は、イランの最後のシャーであったモハンマド・レザー・パフアヴィーと1951年に結婚し、イランの女王となりました。彼はソラヤーとの結婚前に、前妻であるエジプトのファウズィーヤ王女と離婚したばかりでした。
テヘランのマーブルパレスで行われた結婚式へはなんと2000人もの出席者が集ったとか!シャーは結婚の祝い品の代わりに寄付できる品を持ってきてもらうよう出席者にお願いしましたが、2人はそれでも多くの高価なプレゼントをもらったそうです。
高価なものに身をまとい
銀色のラメで装飾されたソラヤー女王の飛びっきり派手なドレスは、クリスチャン・ディオールによりデザインされました。6,000ものダイヤ、多くの真珠、そして20,000ものアフリカハゲコウの羽根が施されたドレスです。基調の合うジャケットと、全身サイズの白ミンクのマントを合わせて完成!すべて合わせてなんと20kgも重さがあったそうです!
ソラヤーが子供を孕めず、後継者を埋めないことが理由に2人の関係に歪めができ、結婚から7年経った1958に2人は離婚しました。離婚後もイランの王女の称号を与えられましたが、彼女は女優となり晩年はフランスで過ごしました。